賢治/やまなし
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クラムボンの正体

クラムボン わたなべかなこさん(6年生)が描いたクラムボンの想像図


以下に、「クラムボン」に関する諸説をおおよそ年代順に並べます。ただし、各研究者のことばは、その時点における意見であることをおことわりしておきます。つまり、更なる研究の結果として現在では別の意見をお持ちかもしれません。なお、敬称は略させていただきました。


1、アメンボ説(昭和14〜43年)

    この説が研究初期の主流を占めたのは、十字屋版全集の注に出たことが影響している。新聞掲載された無校訂のものは二カ所がクラムボンではなく「クラムポン」になっていた。初期形原稿が公表されるまでこの「クラムポン」が単なる誤植であるかどうかは定かではなかった。おそらくここからの連想で、英語の「cramp」「clamp」により、かすがい・気根と解釈され、それがアメンボの作る形相と似ていることから類推されたと思われる。現在ではあまり支持されない。

2、小生物説(昭和46年)

    アメンボ説の亜流。恩田逸夫氏らが諸説の一つとして述べ、プランクトンや川えびが挙げられる。ゲンゴロウ、水すまし、といった説も。しかし、現在ではそれほど支持されていない。

3、蟹の吐く泡説(昭和?年〜現在)

    誰が言い始めたかは定かではないが、現在まで支持されている考え方の一つ。第二章の兄弟の泡くらべとも関連づけて考えられる。「やまなし」を読んだ子供たちに「クラムボンとは何か」を質問したときに必ず出てくる答えの一つでもある。
    後の「crab+bomb説」とも合致する。

4、光説(昭和?年〜現在)

    泡説ほどではないが、子供たちがしばしば出す答えの一つ。「魚がこんどはそこら中の黄金の光をまるつきりくちやくちやにして」という記述に注目すると出てくる説でもある。クラムボンは魚の行き来に影響を受けており、その点でここの記述と一致する。

5、crabからの連想説(昭和54年〜現在)

    蟹の英語、crab とクラムボンが似ていることから、ここからの連想、あるいは、crab+bomb(泡)とするもの。新修版全集で小沢俊郎氏がこの説をあげ、後に続橋達雄氏もこれに共感をあらわす。

6、蟹の母親説(昭和?年)

    「やまなし」に母蟹が出てこないことから、このような説も出てくる。福島章氏の論文「質問教室「『やまなし』には何故母親が出てこないのだろうか?」での討論の報告」(『賢治研究』8、昭46・8)に掲載されている。「やまなし」中に出てくる「イサド」も、母親のいる場所だという説がある。これらは主流ではなく、「こういう説もある」程度の認識をされているようだ。

7、蟹語説(昭和60年〜現在)

    最初に「蟹語」という言葉を使ったのは谷川雁氏ではないかと思われる。以後、他の各説と共にこの説は用いられ今に至る。したがって一つの説というよりも、クラムボンを把握するための一つのキーワードである。その後、「蟹語クラムボンの意味は何か」という方向と、「蟹語であるから理解できない(理解しない)」という方向とが明確に分かれてくる。

8、解釈してはいけない説(昭和60年〜現在)

    現在の主流の一つ。様々に想像できるところに価値があるとされ、研究者が意味を固定することを避ける傾向が強くなっている。とりわけ教育の世界では、現在の理解偏重主義のアンチテーゼとしても、この説が重要視される。

9、全反射の双対現象として生じる外景の円形像説(平成16年)

    物理学を専門とされる伊藤仁之氏による説。水中から水面を見上げると、外界の様子は、光線の屈折により、丸く見える。光説の一つであるが、賢治ならではの自然科学の観点を取り入れた点で秀逸な説。
    双対現象


研究書・研究者の諸説


●十字屋版全集第四巻注(昭14〜19)

    (1)鎹(かすがひ)力爪、鉄臍、釣鈎、攀椽、気根。
    (2)河ぐも(南部地方では水馬、又他の地方では、水すつかし、あめんぼと云う)の中脚、後脚をふんばつて谷川の水面を流れにさからつて跳び乍ら上る形相が、かすがひ或は気根に似てゐるので著者はクラムボンと言つたもの。

●馬場正男・石井宗吾編『宮沢賢治』(成城国文学会、昭23・9)

    かにの子供らの考えたあめんぼのことか。

●昭和四十三年版全集「語注」

    造語。語源・意味不明。水ぐも(あめんぼ)説などある。エスペラントではない。

●恩田逸夫「宮沢賢治における幻燈的と映画的と」(『明薬会誌』昭46・1)

    プランクトンから連想した造語らしい

●恩田逸夫「賢治童話の読み方―『やまなし』を中心に―」(『解釈』昭46・3)

    小さな川エビを考えているのかもしれない

●福島章「質問教室「『やまなし』には何故母親が出てこないのだろうか?」での討論の報告」(『賢治研究』昭46・8)

     母親死亡説は、七カ月を隔てた五月と十二月の二回とも母親が現れないこと、カニの幼い兄がある種の怖れをもって死を話題としていることなどを推定の根拠としている。
     ただし「母の死は幼い子供らにとっては強烈すぎる出来事だから、この作品で死は、漠然とした、一般化された形で語られている」という女性会員説と、「クラムボンというのが母親のことではないか」とする福島洋子説が出た。後者の場合は「クラムボンは死んだよ」「殺されたよ」と明記されているので母の死は確定的であるが、クラムボン=母親と考えることには賛否両論があった。(中略)クラムボン=母親説の根拠は「クラムボンはかぷかぷわらったよ」という表現にみられるデリケートな表情の認知・記憶は同種間(カニの間)で最も考えやすく、微少なプランクトンや水の上のアメンボを対象としては考えがたいこと、この「わらい」が幼い子供達にとって大切な母親イメージであるためにこそくりかえして語られていると解されること、などである。

●新修版全集「語註」(執筆・小沢俊郎)(昭54〜55年)

    “crab”(蟹)から発想した名か。

●谷川雁『賢治初期童話考』(昭60・9)

     ここですぐクラムボンとは何かという疑問につきあたる。(中略)クラムボンをクラムポンともどせば、cramponまたはclamp onなどという英語が連想される。Klamm(谷)というドイツ語も大いに考慮する必要がある。だがcrampもclampもともに重い氷や石をはさんで持ちあげるclamp形の鉄の道具だから、てっきりそれにちがいないと安心している者が多い。そこからハサミを持った昆虫だのミズスマシだのといった安易な「あてもの」が横行したりするが、もしクラムボンが水棲昆虫の類なら、魚のエサになるおそれがあり、クラムボンのほのかな聖性は失われ、空間はどたばた劇の舞台になってしまう。

     作者は、このことばをあきらかに一つの隠語として用いているのだ。英語の字引きでものを考えないこどもたちに、クラムボンは何だと思うかと質問すると、その答は―泡、影、日光、水の流れ、魚、いのち、春の精、雪のかたまり、谷川を司どる神、森羅万象、小さないのちの総体などとふくれあがり、とどまるところを知らない。まさにそれこそが作者のねらいではなかったか。

     ある具体物にゆきつけばそれでよいと言うのなら、なにもわざわざ外来語めいたカタカナの煙幕をはる必要はない。これは幼いカニの脳にきざした観念の初期形だから、きちんと読み解けるものであってはならない。言わばカニ語であって、しかも二匹の兄弟だけが了解するカニ語である。では、兄弟にとって、クラムボンとは何か、おたがいに自明の存在と了解しあっていたのだろうか。たぶん、そうだ。存在の外に存在を設定するような遊びはまだしないだろう。クラムボンは自然的存在であるにちがいない。しかし、それはカニのこどもがとらえた自然存在であって、人間のそれではないから、その内容を人間が見ればまさに〈かぷかぷ笑うもの〉とでも言うよりほかにないものである。このとき〈笑う〉という人間の用語もカニによってつき崩され、暗喩の限界さえも越えてゆく。


●松田司郎『宮沢賢治の童話論』(昭61・5)

    「クラムボン」というのは何だろうといぶかりながらも、その響いている言葉から蟹の子どもたちの快い気分を感じとることができる。クラムボンは賢治の造語らしい。

●続橋達雄『賢治童話の展開』(昭62・4)

    諸説入りみだれて定説はない。わたしは、Crab-bomb(蟹の泡)説にこころひかれるが、何よりもこのことばのひびき、とくに子蟹の兄弟が〈クラムボンは……〉とくりかえすリズム感がたいせつなのであろう。

●鈴木敏子「『やまなし』(宮沢賢治)の世界」(『日文協・国語教育』昭62・8)

    川底のかにの目に映じた水面の泡を、クラムボンという子どもらしい隠語で語り、地の文でそれとなしに、クラムボンは水泡であると説明し、その泡のおもしろさにつられて、かに達もまねして、泡を吹いたのではない、「吐いた」のではないか。(中略)クラムボンは、かにの英語crabからの造語ではないかというのが、私の思いつきである。クラブからクラムボンまでは一息ではないか。

●佐野美津男『宮沢賢治の童話を読む』(昭63・6)

    いろいろな説があることもわかったが、結局のところはクラムボンはクラムボンなのだと考えることにした。(中略)そうした一種の韜晦をもつことで作家は言語の普遍性をこえた独自性を確保できるのではないか。だとしたらそれをむりやりに読み解くことはやめたほうがよい。そうすることで逆に読み解けるものが多くなるのではないか。

●中野新治「『やまなし』読解ノート」(『日本文学研究』平3・11)

    クラムボンとは、どうやら水面の変化、特に光線の微妙な変幻そのものを命名した蟹の幼児語であるように思えてくる。波立ちも含めた水面そのものを指すと考えたいのだが、「なめらかな天井」とあるように、川面に余り波乱はないようだから、川の両岸の林から差し込んで来る木もれ陽が微妙にあるいは躍動的に変化する様を「クラムボンはわらつた」と言い、それが魚の起こす小さな波によって崩されることを「クラムボンは死んだ、殺された」と言ったのではないだろうか。子蟹たちに光線による水面の変化という認識はあるはずもないから、彼らにとってそれはクラムボンという生物に他ならなかったのである。すでに指摘もある平凡な結論に落ちついたが、素直に作品に即して読むかぎりこの結論は動きそうもないのである。

●岡屋昭雄『宮澤賢治論 賢治童話をどう読むか』

    「クランボン」は、「春先、水面の上を走っているアメンボのことですよ。」と、教師が言った瞬間、作品世界が色あせて来ることの意味が分かって欲しいのである。賢治が造語した「クランボン」の背後にある賢治の豊かな世界を楽しむことであり、「アメンボ」が出てもいいのであり、「水すまし」といってもいいのである。にもかかわらず、文脈の流れを豊かに理解することが必須の条件となる。とかく、「クランボン」の意味を特定することだけは授業では止めて欲しいのである。

●中村文昭『童話の宮沢賢治』(平4・3)

    クラムボンとは何か? 兄弟蟹にも読者にも正体不明である。おおくの解釈がなされているが、筆者にはクラムボンは兄弟蟹が吐くつぶつぶの《泡》と読むのが自然のように想える。水泡玉をクラムボン、クラムボン笑ったと遊ぶ様子に、わたしたちは兄弟蟹の無邪気さ、自分と物の区別もままならぬ幼さを読むことができる。

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