「やまなし」の成立時期
概説のところに書いたように、「やまなし」には新聞に発表された稿と、死後発見された初期形といわれる稿とある。岩手毎日新聞に発表されたのは大正十二年(1923年)四月八日だが、これらの原稿が実際いつごろ書かれたのかは、容易には断定できない。
とりわけ初期形の成立時期については研究者間で多少の開きがあるようだ。私が見た論文では、続橋達雄氏と中村和歌子氏が、その成立時期について具体的な数字を出している。まずはその部分を引用してみるので、とりあえずその年月だけ確認していただきたい。
●中村和歌子「賢治童話「やまなし」」(『横浜国大国語研究5』 昭62・3)
「やまなし」との関連を思わせるものは「春と修羅」第一集の巻頭をかざる「屈折率」にもある。黄金のやまなしで救えなかった心象の向こう側に凍てついたでこぼこ道を深い自問でいっとき立ちすくむ賢治=修羅が見えてくるのである。
(中略)この「屈折率」が大正十一年一月六日の作となっていること、「冬のスケッチ」は大正十年十二月から翌四月までの一冬の記録、保坂嘉内との訣別の影響などを合わせて考えてみると、「やまなし」が、現在残っているような初期形として、成立したのは、大正十年十二月頃と焦点が絞られてくるのではないだろうか。
●続橋達雄『賢治童話の展開―生前発表の作品』(昭和62年・4)
ここで、「やまなし」の初稿成立に問題をしぼろう。結論から言うと、その成立は一九二二年五月ごろと推定したい。発表形では五月と十二月の二部構成(初期形は五月と十一月)、一九二一年一一月から一二月にかけては童話「狼森と笊森、盗森」「注文の多い料理店」「烏の北斗七星」などの制作、一九二二年一一月から一二月にかけては妹トシの死去前後、一九二一年五月は東京滞在中である。ところが一九二二年五月をみると、詩「雲の信号」(五・一〇)、「風景」「手簡」(五・一二)、「習作」「休息」(五・一四)、「おきなぐさ」「かはばた」(五・一七)、「真空溶媒」(五・一八)、「蠕虫舞手」(五・二〇)、「小岩井農場」「〔堅い瓔珞はまっすぐ下に垂れます〕」(五・二一)、の一一篇が書かれる。四月には詩五篇と童話「山男の四月」(四・七)、六月は詩一一篇、七月には詩作なしとみてくると、この年の五月と六月は創作意欲の高揚した時期といえよう。
引用だけだと分かりにくいので、この付近の出来事を年表にしてみる。
年 | 月 | できごと(中村論文より) | できごと(続橋論文より) |
大正十年 (1921) | 5月 |
| まだ東京にいる |
| 7月 | 宗教上の理由で 保坂嘉内と訣別 |
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| 11月 |
| 童話「狼森と笊森、盗森」 「注文の多い料理店」 「烏の北斗七星」等の制作 |
| 12月 | 「やまなし」初期形成立か |
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大正十一年 (1922) | 1月 | 「屈折率」を書く |
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| 5月 |
| 創作意欲の高揚、 「やまなし」初稿成立か |
| 9月 |
| 同日の新聞に載った 「心象スケッチ外輪山」 の日付 |
| 10月 | リンゴをポチャンと 落とすエピソード | 「栗鼠と色鉛筆」 制作 |
| 11月 | 妹の死 | 妹トシの死 |
大正十二年 (1923) | 1月 |
| 上京しコドモノクニ に投稿 |
| 4月 | 「やまなし」が 岩手毎日に載る | 「やまなし」が 岩手毎日に載る |
二者の論文の内容を比較対照しながら見てみよう。
両者とも、初期形成立の時期は、トシの死以前と考えている。その根拠としてあげているものは両者で微妙に異なっている。
中村氏
例えば、初期形では、「いいねえ。暖かだねえ。」「お魚は早いねえ。」とのんびり会話していた蟹の兄弟の会話部分を、発表形では「何か悪いことをしているんだよ。」「とっているの。」に変えることによって、魚の行動に悪の意味づけをしたこと。それに加えて、魚を掲揚する色彩語を銀→鉄色→黒と変えながら、抜きさしならないようなところに追い込まれていく魚の不気味で不吉なイメージができ、殺戮の現場、五月の緊張感を高めている。これは「やまなし」の発表の約四ヶ月前の妹トシの死を別にしては考えられないのではないだろうか。したがって、下書稿「やまなし」は大正十一年十一月二十七日の妹の死以前のものであるといっていいだろう。
続橋氏
妹トシの死は、賢治にとって深く大きい衝撃であった。このため、「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」(一九二二・一一・二七)以後、「風林」(一九二三・六・三)まで、まったく詩を作っていない。しかも、「永訣の朝」の日付は妹トシ死去の日であり、いわば妹の死に出会った日、という意味で詩を制作した日とはいえない。「永訣の朝」以前の詩は「栗鼠と色鉛筆」(一九二二・一〇・一五)であり、妹の病気への賢治の心痛を考えると、「栗鼠と色鉛筆」以後はとても詩を作る気持ちにはなれなかったろうと推察される。このことからすると、「岩手毎日新聞」への作品発表は、「栗鼠と色鉛筆」以前の作品からえらんでなされたものではなかろうか。しかも、それら作品の推敲の過程で、妹の死による悲傷が隠微にかげをおとしていたかもしれない。
いずれにしても、トシの死以前に初期形が書かれていたことは間違いなさそうである。
続いて、両者に共通しているのは、制作時期を5月と11〜12月の中から模索していることである。このことは、作品の場面設定が5月と11月(新聞では12月)であることから、それと同じ月に書かれた可能性が高いと考えたわけだが、もちろん他の月に書かれた可能性もある。
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